2025年6月19日木曜日

プロレス列伝「フリッツ・フォン・エリック:馬場とテキサス・デスマッチ」

「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」。「鉄の爪」と呼ばれたエリック。必殺技はアイアンクローとストンピング。馬場との特別ルール試合はどんな内容に?

プロレス列伝「フリッツ・フォン・エリック:馬場とテキサス・デスマッチ」

フリッツ・フォン・エリック(1929年8月16日~1997年9月10日)

テキサス州ジュエット出身。本名は「ジャック・バートン・アドキッソン」。身長は193cm。手が大きいのが特徴で、スパンは32cm、握力は120kg超。必殺「アイアン・クロー」は右手で行う(左手の握力はそれほどでもないのか?)。なぜ、これを決め技にしたのかについては諸説ある。『プロレススーパースター列伝』では「暴漢の腕をつかんで骨折させた」というのがあるが、『列伝』は作り話が多いため信用できない。それはともかく、リングでは多くの大物と対戦。ルー・テーズ、ドリー・ファンク・シニア、ディック・ザ・ブルーザー。バーン・ガニアを破り、AWA世界ヘビー級王座獲得。1966年、テキサス州ダラスに「NWAビッグタイム・レスリング(NWA傘下)」設立。1975年から1976年までNWAの会長職も務めた。今回紹介する馬場との試合は「NWA会長」時代のものということになる。また、エリックが他のレスラーと大いに異なるのはレスラー以外のビジネスで成功したこと。ホテル、スーパー、銀行を経営。しかし、銀行は個人所有ではなく共同経営だったとか。


②「フリッツ・フォン・エリック vs. ジャイアント馬場

(昭和50年7月25日:日大講堂)

(内容)「サマーアクションシリーズ」でのテキサス・デスマッチ(エリック46歳、馬場37歳、とのこと)。レフェリーはジョー樋口と外国人の二人(一人で充分だったと思うが、この試合はNWA王座挑戦権が懸かっていた大一番。「公平さ」が必要だったのだろう)。まず馬場が入場。そしてエリック(髪が薄い)がTシャツ&ショートタイツで登場。花束贈呈。後ろからエリックがキックで不意打ち。ジョー、次いで馬場を場外へ。ストンピング、アイアンクロー。ここで悪質なファンがボールペンでエリックの耳を刺し、流血。馬場が脳天唐竹割りで反撃。両者、流血。その後、エリックがパンチ、キック、馬場はチョップ。アイアンクローをチョップで外した馬場が、16文キック。エリックはアイアンクローを自爆したうえに手を踏んづけられる。「テキサス・デスマッチ」はダウンして10カウント内に立てないと「KO」になるルールで、この試合では二人のレフェリーがダウン時に同時にカウント(動きがシンクロして妙におかしい)。エリックのストマッククローに苦しむ馬場が場外で鉄柱攻撃で仕返し。最後はチョップで場外に落ちたエリックが10カウントを聞いてKO負け。NWA王座挑戦権は馬場に。負けたエリックは腹いせにストマッククローを馬場にオマケして引き上げていった。「アイアンクロー vs. チョップ」がメインだった試合。それに観客の暴挙&シンクロな動きのダブルレフェリー。不思議なのが「アイアンクロー」という技。ホンモノの凄まじい握力によるリアルな技なのか、それとも「凄い握力で締め上げる、エリックさんにしかできない技なんですよ」というキャラ設定の技なのか? ホントに頭(こめかみ)を強烈に掴まれたら外すことはできないのでは? という気がするのだが、どうだろう?


その後

1981年、自身の団体を「WCCW(World Class Championship Wrestling)」に改称。息子たち(ケビン、デビッド、ケリーら)をエースに隆盛。ザ・グレート・カブキらが活躍し、NWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスやリック・フレアー、大物アンドレ・ザ・ジャイアント、ブルーザー・ブロディも招聘(カブキが活躍した頃が絶頂期。ギャラが凄かったそうだ)。しかし、デビッドが全日本参戦で日本滞在中、急死(カブキによるとデビッドはレスラーとしては優秀だったが、私生活はめちゃくちゃだったらしい)。これをキッカケに相次いで息子たちが自殺(「カネ持ちの息子」といった感じだったケリーら。ドラッグに手を出したのが一家の転落の大きな原因)。アメリカのプロレスが変化していく中、エリックの団体も消滅。1997年にがんで死去(68歳没)。

 

2025年6月16日月曜日

プロレス列伝「ミル・マスカラス:仮面貴族がNWA世界ヘビー級王座に挑戦」

「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」。「千の顔を持つ男」「仮面貴族」と呼ばれたマスカラス。入場曲『スカイ・ハイ』も有名。レイスとの王座戦はどんな内容に?

プロレス列伝「ミル・マスカラス:仮面貴族がNWA世界ヘビー級王座に挑戦」

ミル・マスカラス(1942年7月15日~)

謎のマスクマン、マスカラス。本名は「アーロン・ロドリゲス・アレジャーノ」。と言われても、ずっとマスクを被ってきたから素顔を見せたとしても「おお、あいつが正体だったのか!!」とはならない。メキシコ出身。学生時代からレスリングとボディビル(腹にタオルを巻いて身体を引き締めるのが習慣らしい)。1965年7月16日にデビュー。NWAロサンゼルス地区を主戦場にベビーフェイスとして活躍。斬新なデザインの覆面だったため、日本では「悪魔仮面」などと呼ばれたことも。1970年代、フリッツ・フォン・エリックの「NWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)」に参戦。WWWF (後のWWF)にも参戦(1978年、WWWF王者スーパースター・ビリー・グラハムに挑戦)。ヨーロッパに遠征し、ローラン・ボックと対戦(敗退)。俳優としても活動し、多くの映画に出演。日本での活躍としては1971年2月、日本プロレスの『ダイナミック・ビッグ・シリーズ』に初来日(来日第1戦で星野勘太郎をダイビング・ボディ・アタックで下す。スパイロス・アリオンと組み、ジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲が保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦。猪木との最初で最後のシングルマッチも行われた)。1973年10月からは全日本プロレスに参戦。『サマー・アクション・シリーズ』など夏場のシリーズに参戦。「マスカラス」と言えば「マスク」。試合用マスクの上に別のマスク(オーバーマスク)をかぶって、それをファンにプレゼントするのがパターン。試合用マスクのデザインは基本パターンがあるが、オーバーマスクは様々なデザイン。そのため「千の顔を持つ男」と呼ばれる。弟ドス・カラスも人気レスラー。ブルーを基調としたマスクは兄よりもカッコイイ、と評判。甥のドス・カラス・ジュニアとシコデリコ・ジュニアもレスラー。数々の王座を獲得したマスカラスだが、最も有名なのが「IWA世界ヘビー級王座」。この王座は「1970年代中盤に活動していたアメリカ北東部の独立団体」が認定するタイトルで、日本の国際プロレスにあったIWA王座とは別物、とのこと。


ハーリー・レイス vs. ミル・マスカラス

(1980年9月12日:愛知県一宮)

(内容)「サマーアクションシリーズ」で王者ハーリー・レイスの持つNWA世界ヘビー級王座にマスカラスが挑戦。ヒョウ柄のオーバーマスクとマントっぽい布を身につけたマスカラス。ゴング前、オーバーマスクをファンにプレゼント。レイスは赤のショートタイツ。レフェリーはジョー樋口。試合は一進一退で互いの得意技を出し合う展開。先制攻撃のマスカラスがクロスチョップ、ボディプレス。そして、ヘッドロック、固め技、トップロープからのボディアタック、場外ダイブ、ブレーンバスター、(場外で)鉄柱攻撃、サイドスープレックス、ドロップキック、ハーフボストン、トップロープからのボディアタック(二度目。かわされて無様な形で落下)。レイスはブレーンバスター、客席で乱闘、急所攻撃、ニードロップ、エルボードロップ、パンチ、テーブル攻撃、パイルドライバー、ヘッドバット(スカ)、スリーパー、バックドロップ。場外のレイスにトペを決めるマスカラス。しかし、レイスがブレーンバスター。そのまま両者リングアウト。全体を通して見ると、やはりレイスの「重さ」が試合を支配していたような気がする試合。レイスがおなじみ「コーナーに振られて場外に落下(後、リック・フレアーが継承)」「相手の技にオーバーに倒れる」「わざとらしくコーナーに登ってデッドリードライブされる」を見せるなど、余裕の試合運び。マスカラスにとって最悪だったのは得意中の得意である必殺技「トップロープからのボディアタック」をよけられたこと。実にカッコ悪い落下。相手が技を受けてくれないとカッコ悪くなってしまうところが「マスカラスの限界」だった。


その後

レイスは王座獲得、王座転落を繰り返しながらフェードアウト。WWFで試合。WCWではベイダーのセコンドに付くなどの活動。マスカラスは「仮面貴族」のブランドを保持。ギャラもプライドも高く、1990年代には「W★ING」「WAR」「みちのくプロレス」といったインディ団体に登場(高額のギャラはインディ団体にはかなりの負担だったろう)。2012年にWWE殿堂入り。レスラー仲間には嫌われていた、という話もあるマスカラス。決して大きくない身体でやっていくには「嫌われるぐらいのプライドの高さ」が必要だったのだろう。

 

2025年6月6日金曜日

プロレス列伝「タイガー・ジェット・シン:東洋の神秘、黒い呪術師との乱戦」

「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」。「インドの凶虎」と呼ばれたシン。しつこいコブラクロー&サーベル攻撃。レスリング技・パワーを披露するシーンも。

プロレス列伝「タイガー・ジェット・シン:東洋の神秘、黒い呪術師との乱戦」

タイガー・ジェット・シン(1944年4月3日~)

インド出身のシン。本当は「タイガー・ジート・シン」と発音するようだが、日本ではなぜか「ジェット」。本名は「ジャグジート・スィン・ハンス」。身長は190cmで、意外にデカい(身体の大きさを活かすプロレスではないため「意外さ」を感じる)。1965年、シンガポールでデビュー。その後、カナダへ。フレッド・アトキンスから正統派レスリングを習い、カナダではベビーフェイスとして売り出し。ジョニー・バレンタインを破ってUSヘビー級王座を獲得。ジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座、ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦したり、ザ・シーク戦では多くの客を集めるなどトップスターに。1973年5月、新日本プロレスに初来日。山本小鉄を痛めつけて存在をアピール。以後は「新宿伊勢丹前襲撃事件」「腕折り事件」といったエピソード(小鉄が書いた本などに詳しい)。新日本と全日本の「外人引き抜き合戦」により、全日本へ。


②「タイガー・ジェット・シン vs. ザ・グレート・カブキ

(1983年2月25日:愛知県体育館)

(内容)新日本の常連外国人だったシンが全日本へ。カブキはアメリカでブレイクしたキャラ。アメリカの方がギャラが良いため本当は日本には帰りたくなかったが、ジャイアント馬場の命令で帰国。馬場が欠場したシリーズの「穴埋め」として出場したところ、日本でも大人気に。自分よりも人気が出て面白くない馬場だが、団体の経営のためには人気者を特別扱いしなければならない。「特別試合」として行われたこの一戦。劇画「プロレススーパースター列伝」にも二人の対決が描かれていたが、日本ではどんな試合になるか? レフェリーはジョー樋口(何となく結末が予想できる人選)。まずはカブキがカブト&ヨロイで入場(セコンドに越中詩郎、三沢光晴ら)。リング上で日本刀を見せるパフォーマンス。次いでシンが上田馬之助と肩を組んで入場。手にはサーベル(ちょっと曲がっているのが妙に面白い)。ターバンで先制攻撃のシン。チョーク攻撃、鉄柱攻撃(場外)、トーキック、コブラクロー。反撃するカブキはアッパーカット、トラースキック、逆水平、スリーパー。次はシンの番。トーキック、ブレーンバスター、しつこいクロー攻撃。カブキの毒霧にビビるシン。カブキがアッパー、ネックブリーカー。コーナーでカブキが逆さ吊りにされて乱戦。シンがレフェリーに手を出す(やっぱり)。さらに乱戦になり「両者反則」。この当時、全日本でよくあった「ジョー樋口が乱戦に巻き込まれて反則」のパターン。しかし、両者とも得意技を出し合えたからそれでよかったのかもしれない。


③「タイガー・ジェット・シン vs. アブドーラ・ザ・ブッチャー

(1990年6月8日:日本武道館)

(内容)「昭和の二大悪役」が激突。実に興味深いカード。レフェリーは和田京平。まずはシンがサーベルをくわえながらリング入場。派手なパープルのキラキラしたコスチューム。次いでブッチャー。コチラは黒い衣装で、気合いが入っている印象。面白いことに共に先が上向きに尖った「凶器シューズ」。シンがサーベル攻撃でブッチャーのリングインを妨害。地獄突き、ヘッドバットで反撃してようやくブッチャーがリングへ。腕を攻めるシン。そして機材ケース(カメラを入れるもの?)を使ったり、パンチ、キック、おなじみコブラクローといった技で攻めたり。珍しいことにラリアットを連発するシーンも。ブッチャーはやや押され気味ながら体重を利用した攻め、パンチ、バックドロップ。そしてブッチャーの毒針エルボー炸裂。しかし、ロープ際であったためブレイク。ゴングに使う木槌を持ち出すシン。執拗に凶器攻撃。もみ合う両者。ブレイクしないため、レフェリーは「両者反則」のゴング要請。この二人は何度やってもこういう内容・結果になるような気がする。この試合に関しては「シンの珍しいラリアット連発が観れてよかった」といったところ。


その後

ブッチャー戦後、全日本を去ったシン。スペシャルマッチ的な試合で新日本に復帰。全盛を過ぎてからはインディ団体へ。1995年8月20日、「IWA JAPAN」の興行(川崎球場。デスマッチ王者を決める最凶トーナメント)に出場。相変わらず荒っぽいところを見せた。息子タイガー・アリ・シンもレスラーになり、WWFに参戦。2024年には人道的な活動が評価されて旭日双光章を受章。リングでは忠実に「インドの狂虎」を演じ、プライベートでは実業家として成功した「頭脳派」だった。

 

2025年5月28日水曜日

プロレス列伝「サブゥー:日本でのハヤブサ、ブッチャー戦」

「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」。「インディーの帝王」と呼ばれたサブゥー。必殺技はイスを使った場外ダイブ。来日して行った二試合を紹介。

プロレス列伝「サブゥー:日本でのハヤブサ、ブッチャー戦」

サブゥー(1964年12月12日~2025年5月11日?)

「アラビアの怪人」ザ・シークの甥。ギミックではなく、本当の親族。ミシガン州デトロイト出身。本名「テレンス・マイケル・ブルンク」。身長183cm。伯父シークに弟子入りを志望したが、体が小さかったため相手にされず。しかし、努力を認められてレスラーに。ハードコア団体「ECW」で体を張ったファイトで人気上昇。イスを使ってダイブしたり、高いところからジャンプするギロチンドロップが得意技。新日本プロレスにも参戦し、金本浩二からIWGPジュニアヘビー級王座奪取。しかし、あまり一つの団体に長居しない。強敵を求めて各地を転戦。


②「サブゥー vs. ハヤブサ

(1994年8月24日)

(内容)「FMW」での対決。ハヤブサは「空飛ぶ男」。サマーソルトなど空中殺法で人気で、「大仁田厚の後継者」的なポジション。試合開始。ハヤブサはジャンプなど身軽なだけではなく、パワフル。ローリングソバット、プランチャ、ドロップキック、足を固める攻め、フライングニールキック、サマーソルト、ラ・ケブラーダ、ムーンサルト。サブゥーはパンチ、キック、ロープを使った攻撃(ギロチンドロップ、ボディプレス)、エルボーアタック、場外への回転エビ(危険すぎる)、イスをリングに設置して場外ダイブ、天を指差すポーズ(おなじみ)、ニールキック、トペ・スイシーダ、イス攻撃。場外に設置したテーブルにハヤブサを乗せて攻撃を敢行したサブゥーだが、自爆。ハヤブサがリング上で一気に攻撃。後頭部へのニールキック、変型パイルドライバー、トップロープからのボディプレス(一回転ひねり)で3カウント。負けたサブゥー。ハヤブサの強さを認めて握手を求めた。しかし、その後に不可解な行動。リングにテーブルを設置して二回、自爆ダイブ。何ともクレージーな行動。どうやらボロボロになるまでやりたいらしい。試合自体はハヤブサの攻撃が正確だった印象(まさに天才レスラー)。後、ハヤブサは全日本にも参戦するなどの活躍。しかし、2001年10月22日、試合中のアクシデント(これまで数え切れないほどやってきた技「ラ・ブファドーラ」を失敗)により頸髄損傷。不自由な身体になり、結局、2016年3月3日に病死(47歳没)。プロレスは命懸けのパフォーマンスだ。


③「サブゥー vs. アブドーラ・ザ・ブッチャー

(1996年6月24日)

(内容)石川敬士が設立した「東京プロレス」での対決。「黒い呪術師」ブッチャーはシークとの抗争で有名だが、どんな試合になるか? 先にサブゥーが入場。そしてブッチャー。共にアラブの民族衣装(サブゥーは白、ブッチャーは黒)。ブッチャーのリングインを妨害するサブゥー。執拗にペンのようなモノで凶器攻撃。場外でやられっぱなしのブッチャー。何とロクに技の攻防もなく、そのまま両者リングアウト。「60分一本勝負」だったが「試合時間」は4分27秒。しかし、その後が本番。リングにイスを設置して場外のブッチャーにダイブしたサブゥーだが、自爆。今度はブッチャーがフォークで反撃、リング上でカラテのポーズ。サブゥーがパウダー攻撃&凶器でまた優勢。ここで乱入者、サブゥーがピンチ。石川がイスでサブゥーの救援に駆け付けて終了。何とも言えない試合。これもまたプロレスだが、ただ、凶器でやり合っただけ。ぶよぶよな体のブッチャーは仕方がないが、サブゥーにはもう少し見せ場を作ってもらいたかったところ。


その後

ECW、TNAに参戦。体調不良でブランク。TNA、インディ団体に参戦。2025年4月18日、引退。それからまもなく死去。長く生きられないのもムリもない試合ぶりだった。 

2025年5月1日木曜日

プロレス列伝「スタン・ハンセン:大熊元司、阿修羅原に必殺ラリアット」

「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」。「不沈艦」と呼ばれたハンセン。必殺技はウェスタン・ラリアット。全日本で剛腕を爆発させた二試合を紹介。

プロレス列伝「スタン・ハンセン:大熊元司、阿修羅原に必殺ラリアット」

スタン・ハンセン(1949年8月29日~)

テキサス州ノックスシティ出身(全くそんなイメージはないが、デンマーク系だそうな)。本名「ジョン・スタンリー・ハンセンII世」(貴族っぽい)。大学卒業後、プロフットボール球団に入団したが、解雇。故郷の中学校で教師に。大学のフットボール部の先輩であったテリー・ファンクのスカウトでプロレス入り(ブルーザー・ブロディ、ダスティ・ローデス、ボビー・ダンカンもウエスト・テキサス州立大学の先輩)。パワーファイターとしてリングに上がるが、大きな転機。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでボディスラムを失敗してWWWFヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノの首を頸椎捻挫させてしまった(ラリアットで首を折った、と後に宣伝された出来事)。こういった不器用な選手は嫌われるのがマット界。アメリカでの活躍の機会が減っていく。初来日は1975年9月、全日本プロレス。1977年1月、WWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦。アントニオ猪木とのNWFヘビー級王座をめぐる抗争が人気化。そして新日本と全日本の外人レスラー引き抜き合戦。高額の契約金で全日本へ(1982年)。以来、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らと抗争。


②「スタン・ハンセン vs. 大熊元司

(昭和60年7月12日:八戸市体育館)

(内容)大熊は元・力士。トレードマークはモミアゲ。全日本では中堅どころ。グレート小鹿との「極道コンビ」としても有名。85年「熱風!サマー・アクション・ウォーズ」で行われたこの試合のレフェリーはジョー樋口。ハンセンが砂色(テキサスの砂漠をイメージ?)のコスチュームで入場。体格差(身長は大熊が179cm、ハンセンは192cm)。試合開始。ハンセンの攻撃をかわしてキック、そしてヘッドバット連発の大熊。しかし、そこまで。ハンセンが連続攻撃。チョップ、カウンターキック、ボディスラム、ダブルニードロップ、トーキック、ジャンピングニー。場外ではテーブル&鉄柱攻撃。リング上で「ちょこん」と当てるドロップキック。場外の馬場とやり合った後、大熊にウェスタン・ラリアット炸裂、3カウント。ハンセンが圧勝。大熊は「やられ役」。いかにハンセンが強いか、を観客に見せるのが仕事。しかし、トップを狙うのがプロレスラーというもの。「引き立て役」というのは悲しいポジションのような気がする。


③「スタン・ハンセン vs. 阿修羅原

(昭和60年11月27日:札幌中島体育センター)

(内容)原(身長183cm)はラグビーの日本代表から国際プロレス入り。1980年4月3日、新日本プロレスで藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦、敗北。国際プロレス解散後、全日本入り。ハンセンとは因縁。全日本に移籍したハンセンの初試合の相手が原で、ラリアットで原は病院送り(1982年)。それから時が経ち、「85' 世界最強タッグ決定リーグ戦」で特別試合。レフェリーはタイガー服部。ハンセンが黒のコスチューム(背にはおなじみドクロの絵)、テキサス帽、ブルロープで入場。リング上で「ウィィー!」(ホントは「ユース!」って言ってるらしいが、「ユース」には聞こえない)。原が張り手。これに怒りのハンセンは場外でチョップ、テーブル&鉄柱攻撃。その後、原がチョップ、ヘッドバット、ショルダースルー、左腕攻め(ハンセンと戦う相手がよくやる「ラリアット封じ」。しかし、この攻撃によってハンセンがラリアットを打たなくなるケースはあまり無かったような気がする)。ハンセンはトーキック、ボディスラム、エルボー、ボディアタック。共にゴツい体ではあるが、体格ではハンセン。原のラリアットで場外に出たハンセンだが、リング上で逆に必殺ウェスタン・ラリアット。3カウントを奪ってサッサと引き上げていった。これもある程度予想できた結果。ぶつかり合い、といった感じの試合。デカい方が勝つのは当たり前。その後の原。ラリアットを武器に活躍。「ヒットマン」と呼ばれ、天龍とタッグ。借金問題から全日本を解雇。インディのリングへ。


その後

引き続き全日本で試合。アメリカで何とAWA世界ヘビー級王座を獲得(AWAは古風なレスリングを見せる団体。パワーファイターのハンセンが王座に就くとは。しかし、AWAはこの頃は末期。後に消滅)。全日本では三冠ヘビー級王者になるなどラリアット健在。両膝の故障により2000年11月19日に引退。引退後もPWF会長を務めるなど「レジェンド」な存在になった。

 

2025年4月19日土曜日

プロレス列伝「グレート東郷:後のAWAの帝王と三本勝負」

「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」。「謎の日本人ヒール」だった東郷。日本風の演出&ベタな反則。レスリング技を使う器用さも。バーン・ガニア戦を紹介。

プロレス列伝「グレート東郷:後のAWAの帝王と三本勝負」

グレート東郷(1911年10月11日~1973年12月17日)

謎のレスラー、東郷。関連書籍の発行により様々なことが明らかに。本名「ジョージ・カズオ・オカムラ」、日本名「岡村 一夫(おかむら かずお)」。オレゴン州フッドリバー出身の日系アメリカ人。両親については諸説あり、日本人または中国人、朝鮮人の血を引いているという話。「貧しい移民の子」だったため、格闘技を選択。22歳でレスラーに。太平洋戦争の影響がまだ大きかった戦後はアメリカ人の「反日感情」を上手く利用。日露戦争時の大日本帝国海軍の東郷平八郎にちなんで「グレート・トーゴー(Great Togo)」のリングネームを使用し、反則技、日本風の演出、レスリング技を取り入れた変幻自在な戦いぶりで注目を集める。


②「グレート東郷 vs. バーン・ガニア

(1952年5月16日)

(内容)ガニアはアマチュアレスリングから1949年にプロ入りした正統派。フットボール選手としてNFLでプレーしていたこともあったが、チームオーナーから「フットボールかプロレスか」の選択を迫られ、プロレスを選んだ。プロレスの方が給料が良かったのが理由だったとか(今なら逆だろう)。NWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得するなどの活躍。東郷との試合の時点ではまだ若手で、髪の毛がある。アメリカでの一戦。額に絆創膏を貼っている東郷。和服を着た日本人らしきセコンドと何やら儀式。塩をまくパフォーマンス。ガニアはリングシューズを履いているが、東郷は裸足。試合開始。ガニアの握手に応じず、東郷は笑顔でおじぎ。そして四股を踏む。当時はまだプロレスは真剣なもの。両者、バックや腕を取り合うレスリング。ガニアが胸板にハンマーパンチ、ヘッドロック、スクールボーイ、ドロップキック連発、タックル連発。東郷はロープブレイク時に攻撃する反則、わざとらしくおじぎしてチョップを食らうパフォーマンス、パンチ、フロントネックロック、「かんべんしてくれ」といった小狡い動き(後にリック・フレアーが得意とした演出)。スリーパーホールドを決めた東郷。ガニアと共に後方に倒れた際に肩がマットについて、カウント3。どうやら「三本勝負」のようで、取り敢えずガニアが一本先取。二本目。東郷がベアハッグ。ガニアが切り返してベアハッグ。このとき東郷の絆創膏が剥がれて、ちょっとした流血。ガニアの腕を固める東郷。「グリグリ」っといった感じのヘッドロック。ガニアはアームホイップ、ドロップキックを決めるが、スリーパーホールドでギブ。三本目。ガニアが気合いの入った猛攻。パンチの嵐、ニードロップ連発。場外に落とされ、カウント(どうやらこの時代は「場外乱闘」は無かったようだ)。リングに戻り、タックル、アームホイップ。そしてスリーパーホールドで一気に勝利。負けて悔しい東郷は食い下がるが、パンチされてしまった。なかなか面白かった試合。ガニアには勢いがあった。東郷はおそらくこの試合のようなパターンでドルを稼ぎまくったのだろう。この戦いぶりは後にアメリカのマットに上がった日本人および日系人レスラーの手本となり、前述したようにフレアーのようなアメリカ選手もこういったパターンを受け継いだというのは面白い話。その後のガニア。ルー・テーズと並ぶトップ選手となったが、NWAと衝突。1960年、ミネソタ州ミネアポリスを本拠地とするAWA(アメリカン・レスリング・アソシエーション)を結成。アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ザ・ロードウォリアーズ、マサ斎藤らが出場するなど大いに栄えたが、WWFのショースタイル・プロレスが人気化し、古いタイプのレスリングを見せるAWAは落ち目に。1991年、活動停止。1993年、ガニアは自己破産してしまった。


その後

1959年9月、日本プロレスに初参戦の東郷。以後、レスラーとして活躍する一方、ブッカーとしても手腕。フレッド・ブラッシー、ザ・デストロイヤー、グレート・アントニオといった大物を日本に招聘。しかし「力道山の死」で急展開。ブッキング料を巡って日本プロレスからブッカーを解任される。その後は国際プロレスに接近。日本プロレスから大木金太郎を引き抜こうとしてユセフ・トルコと松岡巌鉄から暴行されたのは有名な話。さらにまたしてもブッキング料を巡るトラブルから国際プロレスとも決別。どうやら東郷のアメリカ流のビジネス感覚が日本とは合わなかったようで、日本ではあまり活躍できず。1973年12月17日、胃癌によりロサンゼルスで死去(62歳没)。東郷のイメージは日本ではあまりよくないが、「金銭にシビアではあったが、それに見合う仕事はしていた」という評価もある。「物事をハッキリさせるアメリカ流」が「何かと曖昧にしたがる日本流」に合わなかったというのが真相のようだ。

 

2025年4月18日金曜日

プロレス列伝「アブドーラ・ザ・ブッチャー:東洋の巨人との戦い」

「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」。「黒い呪術師」と呼ばれた男。必殺技は地獄突き&毒針エルボー。略歴、日本での活躍、ジャイアント馬場との一戦を紹介。

プロレス列伝「アブドーラ・ザ・ブッチャー:東洋の巨人との戦い」

アブドーラ・ザ・ブッチャー(1941年1月11日~)

ミステリアスなレスラー、ブッチャー。しかし漫画『プロレススーパースター列伝』に載っていたエピソードと実際は全然違う。カナダ出身(「スーダン出身」ではない)。本名「ローレンス・ロバート・シュリーブ」。「ゼーラス・アマーラ」というのは売れる前に名乗っていたリングネーム。ニックネームは「黒い呪術師」。入場テーマ曲は『吹けよ風、呼べよ嵐』。ブッチャーと言えば「カラテスタイル」。空手は警察署で行われていた無料講習で習った、とのこと(「ガマ・オテナから地獄突きを習った」というのは全くの作り話。ホントだったら面白かったのに)。1961年、プロレス入り。主戦場はカナダ。NWA世界タッグ王座(バンクーバー版)を奪取。ジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦したことも(この頃は「狂乱の反則野郎」ではなく「エリート」だった?)。日本には1970年、日本プロレスに初来日。タッグ戦でジャイアント馬場をフォールするなどの活躍で人気。『ワールドリーグ戦』には「アフリカ代表」として参戦。今回紹介するのはその時の試合。


アブドーラ・ザ・ブッチャー vs. ジャイアント馬場

(1971年5月19日:大阪府立体育会館)

(内容)日本プロレスで行われた「第13回ワールドリーグ戦」の優勝決定戦(当時は馬場と猪木のライバル意識が強く、このリーグ戦には様々なエピソードがあったとか)。ブッチャーは白いロングタイツ姿。身体は細めで、「額のキズ」はまだ無い(ように見える)。馬場はこの頃には既に細い体つき。ニラみ合いが続き、ブッチャーが地獄突き、ヘッドバット、場外でテーブル攻撃。馬場はカウンターキック、逆水平(いわゆる「ババ・チョップ」)、場外でお返しのテーブル攻撃(やられたらやり返す馬場。結構、気が強い)。ブッチャーが凶器攻撃(使用後はタイツに隠す)。チョップ合戦は馬場が優勢。さらに馬場が鉄柱攻撃(場外)、十六文キック、三十二文ロケット砲。ブッチャーがランニングエルボーを狙う。かわす馬場。そのままカバーして馬場が勝利、優勝。最後はどんくさい負け方をしたブッチャー。あのエルボーをよけられたら勝てない。エルボーで勝つか、そうでなければ反則負け、両者リングアウトがブッチャーの「いつものパターン」。


その後

1972年に馬場が全日本プロレスを旗揚げ。ブッチャーは全日本の常連に。いつから狂乱殺法を行うようになったのだろう? デストロイヤーとの抗争はかなり凄惨なものだったという話からすると全日本時代にエスカレートしていったのではないだろうか? 1977年の『世界オープンタッグ選手権』ではテリー・ファンクにフォーク攻撃。新日本にやって来た時には無惨なほどの額のキズ。その一方で河口仁の漫画『愛しのボッチャー』のモデルになったり、CMに出演したりの人気。著書『プロレスを10倍楽しく見る方法』『続・プロレスを10倍楽しく見る方法』も(「ゴジン・カーン」なる人物が書いたらしい。ブッチャーは名前を貸しただけ?)。日本以外ではプエルトリコWWC、アメリカWCWに参戦。新日本プロレスに「IWGP」に参戦するという名目で登場したときはアントニオ猪木と特別試合。結局、新日本ではあまり活躍することなく、最後は猪木にフォール負けして全日本にカムバック(ジャイアント・キマラとのユーモラスなタッグが人気に)。その後はインディ団体(東京プロレス)で高田延彦と対戦するなど、全盛を過ぎても試合会場を盛り上げた。プライベートでは離婚や訴訟。苦労が多い人生。

 

2025年4月15日火曜日

プロレスちょっと残念な話「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」

ホントかどうかわからない話が多いプロレス界。有名なエピソードばかりですが、レスラーたちの素顔を少しばかり紹介(注:関係者の話をまとめたもの。真実ではない話もあるかも)。


力道山

「木村政彦(37歳)vs. 力道山(30歳)」「昭和の巌流島の戦い」。

(力道山が圧勝した試合。試合前、木村から八百長の申し入れがあったという。引き分けにしよう、という内容だったそうだ。しかしながら、力道山はこれを無視。その理由はどうやら「ファイトマネーの配分」にあったようだ。勝った方が多くもらえる、ということで、力道山は引き分けではなく勝ちを狙ったという。勝てるのであればワザと引き分けて相手にカネをくれてやることはない、ということか。死後、力道山は「ケチだった」など周囲の人間にボロカス言われた。若い弟子である猪木にイヤなことを言って悩ませた話も有名。「戦後のヒーロー」だが、「力道山」ってのは一体何だったんだろう?)

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フレッド・ブラッシー

噛みつき攻撃をテレビで観たファンがショック死。

(西洋人が日本のレスラーに噛みついて流血させた。それを観たファンが死亡。そのファンからすればブラッシーは「吸血鬼ドラキュラ」に見えたに違いない。ヤスリで歯を磨いて鋭くした、というのも有名な話。でも、その歯は「入れ歯」。ブラッシーが入れ歯を外すところを見たことがある人によると、「老人のような顔だった」という。)

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アンドレ・ザ・ジャイアント

プロレスラーになる前はきこりだった。

(これはアンドレを売り出すための作り話。実際はその巨体を生かして家具運送会社に勤務していたという(コレもウソじゃないだろうね?)。アンドレのエピソードは結構残念なものが多い。WWFでキラー・カーンがアンドレの足を折った、というのもウソ。実際はドジってケガしたアンドレにカーンが技を食らわして「カーンにやられた」ということにしたのが真相。日本でも何度もアンドレとカーンの「因縁の試合」が行われた。他にも「ヒップドロップ」を得意技にしていたのもあって、ケ○に関するエピソードも。) 

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テリー・ファンク

ヒザを痛めて1983年に引退したテリー。その後、カムバック。

(映画界に進出したが失敗したためリングに戻った、というのが真相らしい。日本では若い女性に人気があったが、カムバック後はサッパリ。アメリカWCW、日本のインディ団体でのデスマッチでそれなりに活躍。)

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スタン・ハンセン

恐怖のウエスタンラリアットでブルーノ・サンマルチノの首の骨を折った。

(実際はボディスラムを失敗してケガをさせた、ということらしい。「ニューヨークの帝王」をケガさせてアメリカマット界から追放されたハンセンは路頭に迷ったというが、新日本プロレスが拾ってくれたおかげでスターになった。)

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ラッシャー木村

「こんばんは、ラッシャー木村です」

(国際プロレスが崩壊。ラッシャーが新日本に参戦することに。その前に猪木に対戦アピール。猪木としてはラッシャーに気合いの入ったアピールをしてもらいたかったところ、この気の抜けるような挨拶。「新国際軍団」としてラッシャー、アニマル浜口、寺西勇にチャンスが与えられたが、「猪木の引き立て役」に終わった。)

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マシン軍団

若松マネージャーに率いられた謎の軍団。

(全盛を過ぎた猪木を倒すために現れた軍団。その一号である平田淳二。元々、平田は「マシン」ではなくマンガ「キン肉マン」のマスクをかぶる予定だったという。しかし、権利関係の問題でボツに。それでよかったと思う。技を競い合うストロングスタイルの新日本にマンガキャラは似合わない。後にマシン軍団はメンバーを増やして行くが、もし「キン肉マン」だったら何のキャラが登場していただろう? 「ラーメンマン」「ロビンマスク」「テリーマン」?)

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UWF

格闘技プロレス「UWF」。

(元々はプロレスの新しいTV番組の予定だった「UWF」。猪木やホーガンといった当時のトップも参加する予定だったという。それがつぶれてボツ企画に。猪木らよりも先にUWFに行っていた前田日明らは「新日本から出ていった連中」みたいな扱いに。その後、猪木が前田との対戦を避けたのは、その時の怒りで前田から何されるかわからない、と不安に思ったからだという。)

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個性派ばかりのプロレス界。しかも、「ガチとヤラセ」の問題もある。ホントかどうかわからない話、未だに謎の出来事。ホントのことを知ってしまうとシラけてしまうのもまた事実。あまり真実を追及しない方がいいと思いますが、いかがでしょうか? 

2024年11月15日金曜日

プロレス列伝「ザ・シーク:黒い呪術師、インドの猛虎との対戦」

「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」。「アラビアの怪人」と呼ばれたシーク。必殺技はキャメルクラッチだが、二大悪党との試合はどんな内容に?

プロレス列伝「ザ・シーク:黒い呪術師、インドの猛虎との対戦」

ザ・シーク(1926年6月9日~2003年1月18日)

劇画「プロレススーパースター列伝」では、ケチで邪悪でパフォーマンスは他人のパクリ、などと散々な描かれ方だったザ・シーク。一体どんなレスラーだったのだろう?  アメリカ・ミシガン州ランシング出身で、レバノン系アメリカ人(中東生まれではなかった)。本名「エドワード・ジョージ・ファーハット」(何となく高貴な感じ)。身長は183cmで、小柄。悪役レスラーとしてリングに上がる一方、デトロイト地区のNWA系プロモーターとしても活躍。「デトロイトの帝王」とも呼ばれた。ECWや短い期間だったが新日本プロレスにも来たサブゥーは彼の甥。スカウトされてプロレス入り。全盛期は50年代らしく、1955年11月18日にルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。「火炎攻撃」など独特の演出をやりだしたのは60年代だそうで、ドリー・ファンク・シニア、フリッツ・フォン・エリックといった大物と対戦。1964年にデトロイト地区のプロレス興行権を購入、自身の団体を立ち上げ。「プロレススーパースター列伝」ではこの頃のことが描かれており、「目立ちたがり」のシークが「人気上昇中」のブッチャーを利用して荒稼ぎする描写だった(しかし、「列伝」は作り話が多いことで有名。そんな二人の日本での対決はどんなものになるか?)。80年代になってデトロイトは不景気。団体は閉鎖。今回紹介する二試合の時点ではピークを過ぎた状態。


「ザ・シーク vs. アブドーラ・ザ・ブッチャー」

(昭和55年12月1日:札幌中島体育センター)

(内容)レフェリーはジョー樋口。まずブッチャーが入場。頭をファンにペタペタ触られる。シークがいつの間にかイスを持って入場し、奇襲攻撃。場外戦。さらにシークは何か尖ったモノで凶器攻撃。早くも流血戦。警告したり、カウントしたりのジョーだが、シークはお構いなしでチョーク攻撃。ようやくブッチャーが地獄突き、ヘッドバット、フォークで反撃。何者かがシークに加勢して「シークの反則負け」。キラートーア・カマタも参戦してブッチャーをフォロー。その後もシークとブッチャーは花道、客席でつかみ合いを展開した。反則のやり合いで「試合」としては微妙。これもまたプロレスだが、「技の攻防」という点ではあまり面白くなかった。テクニックではなく「レスラー同士のやりとり」を見せるのが全日本プロレス。いかにも全日本らしい試合だった。


「ザ・シーク vs. タイガー・ジェット・シン」

(昭和56年12月9日:札幌中島体育センター)

(内容)翌年にはシンと対戦。レフェリーはジョー樋口で、会場も同じ札幌中島。シークが周囲をニラみながら入場。そしてシンがサーベルを持って上田馬之助と入場。シークが凶器攻撃。シンがやり返して流血戦。シンがトーキック。場外戦。先にリングに戻ったシンがリングアウト勝ち。試合時間は何と「2分21秒」。その後も場外でやり合って終了。ブッチャー戦と同じような内容。悪役同士の対戦は「何かやってくれそう」といった期待感があるが、実際にはあまり面白い試合にはならない。「ブルーザー・ブロディ vs. アブドーラ・ザ・ブッチャー」なども「つかみ合いのケンカ」みたいな感じで面白い試合ではなかった。キャラで勝負するレスラー同士の試合はドタバタしたものになりがち。それが新日本プロレス(テクニック指向)のファンが全日本(キャラ指向)を嫌った理由(当時)。今ではどの団体も「派手な動きを見せるプロレス(アメリカ指向)」になった感があるが・・・。

 

2024年6月2日日曜日

プロレス列伝「ジャイアント・キマラ:全日本・WWFでの戦い」

「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」。「ウガンダの大魔神」と呼ばれたキマラ。必殺技はボディプレスとクロスチョップ。WWFでの怪奇派対決はどんな内容に?

プロレス列伝「ジャイアント・キマラ:全日本・WWFでの戦い」

ジャイアント・キマラ(1950年5月28日~2020年8月9日)

プロレス界には二人の「キマラ」が。今回紹介する「キマラ」はアメリカでは「カマラ」と呼ばれ、WWFやWCWで活躍した方。本名「ジェームズ・ハリス」。「ウガンダ出身」はキャラ設定で、実はアメリカ人(もう一人の「キマラ」は本名「ベンジャミン・ピーコック」。「アフリカ・ボツワナ共和国出身」「ボツワナ・ビースト」というキャラ設定で、コチラも実際はアメリカ人)。「ウガンダの未開部族、カマラ」というキャラを考案したのはあのジェリー・ローラーだそうだ。「カマラを発見した」謎の覆面探検家キムチーが通訳およびマネージャーを担当。フリッツ・フォン・エリックのWCCW、そしてWWFで活躍。NWA世界ヘビー級王座、AWA世界ヘビー級王座にも挑戦したということから、かなりの人気があったと思われる。


「ジャイアント・キマラ vs. 大熊元司」

(昭和60年8月2日:札幌中島体育センター)

(内容)全日本プロレス「サマードリーム・フェスティバル」での大熊戦。大熊は元・力士。全日本では中堅選手で、外国人レスラーの力量をチェックする役目。まず先に入場して相手を待つ。キマラがアフリカの仮面&ヤリで入場。セコンドは無し。花束が贈呈されるが、キマラ(顔に不気味なペイント。体にもペイント)には渡されず。レフェリーはタイガー服部。試合はやはりキマラが優勢。チョップ、キック、チョーク、タックル、クロスチョップ、ヘッドバット、ネックハンギング、エルボードロップ、ボディスラム。ややチョーク攻撃多め。大熊はトーキック、チョップで反撃するが、相手の巨体に通じない。キマラがトップロープに。ダイビングボディプレスで3カウント。勝利後、もう一発食らわそうとトップロープに登ったが、レフェリーに阻止された。キマラが個性をアピールして勝利。試合というよりキマラを売り出すような試合内容。馬場はアメリカでスターになった男。「選手の売り出し」はアメリカ流。大熊はいつも「やられ役」。


「カマラ vs. パパ・シャンゴ」

(1993年:アメリカWWF)

(内容)昭和の怪奇レスラーが新しい時代の怪奇派と対決。パパ・シャンゴはブードゥー教キャラ。白いペイント&ドクロがトレードマーク。正体はネバダ州ラスベガス出身のチャールズ・ライト。プロレスラー養成所「モンスター・ファクトリー」出身。WWF登場前は新日本にも参戦。「パパ・シャンゴ」としてWWF登場。まずはドクロを手にパパ・シャンゴ入場。カマラはアフリカ人らしい(?)ヤリと盾を持って入場。セコンドに黒人マネージャー。パパ・シャンゴのドクロにビビるカマラ。ドクロの仕掛けにさらにビビる。ゴング。パパ・シャンゴがハンマーパンチ、噛み付き、ボディアタック、キックで先制攻撃。カマラはチョップ、ヘッドバット、クロスチョップ、ボディプレス(自爆。お約束)。反則攻撃のパパ・シャンゴ。カマラのマネージャーにも手を出す。「ちょこん」とトラースキックを食らってパパ・シャンゴが場外にエスケープ。追うカマラ。結果は両者リングアウト。決着つかず。いかにもアメプロらしい内容と結末。アントニオ猪木の試合などプロレスをマジメに見てきたファンがこの試合を見たら「こんなもんプロレスじゃない」と怒るかも。しかしながら、わかりやすいキャラ設定で、試合内容も悪くない。初めてプロレスを観るファンでも楽しめるのがアメプロ流の演出。その後のパパ・シャンゴ。個人的には良いキャラだと思うがアメリカではあまりウケなかったらしく、キャラ変。「カマ」としてファルークの黒人至上主義軍団「ネーション・オブ・ドミネーション(NOD)」に参加。次いで「ザ・ゴッドファーザー」なるいかがわしいキャラに。


その後

WCWにも参戦したキマラ。セミリタイアしてトラック運転を本業に。時折、リング復帰。2011年、糖尿病の合併症で左足を失い、現役引退。2020年、コロナウイルスで死去(70歳没)。会場を沸かせた楽しいレスラーだったが、最期は悲しいものとなってしまったのが残念。

2024年1月23日火曜日

プロレス列伝「ブル中野 & アランドラ・ブレイズ」

アメリカWWFで行われた女子王座戦。アメプロらしい派手な舞台、試合展開。両選手、試合内容を紹介します。「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」

ブル中野 vs. アランドラ・ブレイズ

(アメリカ・WWF RAW :1995年)

ブル中野

「ブル中野 vs. アランドラ・ブレイズ」「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」

東京都出身。全日本女子プロレスに入門。ダンプ松本に誘われて「極悪同盟」入り。その後は「ヒール」というより「女子界のトップ」といった存在に。1993年にWWF遠征。

アランドラ・ブレイズ

「ブル中野 vs. アランドラ・ブレイズ」「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」

イタリア・ミラノ出身。ミネソタ州ミネアポリスで育ち、AWAに入団。全日本女子プロレスにも参戦。アメリカWCWへ。WWFへ移籍。そして、またWCWへ。このときWWF女子王座のベルトをゴミ箱へ捨てるパフォーマンスを行い、顰蹙を買った。美人さんながら結構キツいことをやる(さすがレスラー?)。

試合会場

「ブル中野 vs. アランドラ・ブレイズ」「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」

TV解説席にビンス・マクマホン(マックマーン?)。カッコいいのが入場ゲート。キラキラ光っていてレスラーたちがカッコ良く見える(ダサい系レスラーもカッコ良く見えるスグレモノ)。誰のアイデアかは知らないが、見事なセンス。

試合内容

「ブル中野 vs. アランドラ・ブレイズ」「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」

女子王者のブルにブレイズが挑戦する形での一戦。緑の髪を立てているブル。ブレイズは白のコスチューム(実にスタイルがいい)。ウッカリ相手に背を向けたブレイズにブルが不意打ち(「志村、後ろ後ろ!」な感じだった)。ヘッドシザースを使うブレイズ。ブルが荒っぽい攻撃。クローズライン、髪をつかんで投げ飛ばし(数回)、ギロチンドロップ、足を固める。その後は両者、持ちワザを連発。ブルがヒップドロップからの固め技、パイルドライバー、トップロープからのギロチン。ブレイズはネックブリーカー連発、ニールキック、ドロップキック、プランチャ、ジャーマン。場外戦。トペを自爆したブル。ブレイズが場外でジャーマン。リングへ。ムーンサルトを自爆したブルにブレイズがジャーマン、3カウント。ブレイズが王座奪取。しかし、ダンプ松本をパワーアップしたようなゴツい女に襲われてしまった。アメプロらしい内容、エンディングだった試合。共に大技を使ってどちらもファンも満足させる演出。試合が終わっても乱入などで次の試合に続けるのもWWFらしかった。実にカッコ良かったブレイズ。個人的に一番好きな女子レスラー。ちなみに最後に乱入したダンプ松本っぽいのはバーサ・フェイ。後に、女子王者になったそうだ。

 

2023年12月2日土曜日

プロレス列伝「ザ・グレート・カブキ:アメリカWCCW・全日本での戦い」

「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」。「東洋の神秘」と呼ばれた怪奇派カブキ。ヌンチャク・パフォーマンスに必殺技アッパーカットとトラースキック。

プロレス列伝「ザ・グレート・カブキ:アメリカWCCW・全日本での戦い」

ザ・グレート・カブキ(1948年9月8日~)

本名「米良 明久(めら あきひさ)」。日本プロレス入門。日本プロレス崩壊後、全日本へ。アメリカ武者修行。「カブキ」に変身(その当時のエピソード、「毒霧」といったパフォーマンスに関する秘話は本人が様々な場で語っている)。マネージャーは元レスラーでもあるゲーリー・ハート(後にギャラの横領でカブキと仲違い。グレート・ムタをWCWで売り出したが、ムタとの関係は悪くはなかったようだ)。フリッツ・フォン・エリックのWCCWで大ブレーク。ギャラも凄かったらしく、日本には帰りたくなかったほど。


「ザ・グレート・カブキ vs. ジャイアント・キマラ」

(アメリカ・WCCW)

(内容)カブキの全盛期の試合。ややこしいレスラーのキマラ。「キマラ」と呼ばれるレスラーは二人。今回紹介するキマラは「初代キマラ」。「ウガンダの大魔神」と呼ばれるが、実はアメリカ人(もう一人の「キマラ」も全日本プロレスに来日。「アフリカ・ボツワナ共和国出身」「ボツワナ・ビースト」というキャラ設定たったが、実際はアメリカ人)。リング入場。カブキは赤い付け毛に般若の面。見事なダブルヌンチャクを披露。仮面を外し、毒々しいペイント。緑の毒霧噴射。キマラはアフリカ民族衣装なコスチューム。セコンドのキム・チーがちょっとコミカルな雰囲気(「怪しさ」がにじみ出ている)。もう一人、アラブ人がキマラのセコンドに付いているが、このキャラはよくわからない(たぶん、「マネージャー」キャラ。しかしながら、よくわからないのがプロレスの「マネージャー」。本当に選手をマネージしてプロレス団体とギャラの交渉をしたりしているのか、単なる「キャラ」なのか?)。試合開始。体格差。キマラが巨体を生かしたチョップ、ネックハンギング、ベアハッグ、クロー攻撃。カブキはソバット、トラースキック、アッパーカット。セコンドもやり合い、リング内へ。キマラを攻撃するゲーリー・ハート(セコンドがレスラーに手を出すのは基本的に御法度)。結果はノーコンテストか? あいまいな決着。アメプロはキャラを楽しむものだが、あまりにも消化不良な結果だとファンも喜ばないような気がする。カブキのダブルヌンチャク、打撃系の技、キマラのネックハンギング、どこかユーモラスなキム・チーが見せ場だった。


「ザ・グレート・カブキ vs. ジム・デュラン」

(昭和58年2月11日:後楽園ホール)

(内容)全日本プロレス「エキサイトシリーズ」開幕戦での一戦。アメリカでトップスターになったカブキ。ジャイアント馬場が帰国命令。馬場がアメリカ・セントルイス遠征で欠場するため、その「穴埋め」として佐藤昭雄が「カブキの凱旋帰国」を提案したそうな。デュランはニュージャージー州トレントン出身の白人。本名は「ジェームズ・モリソン」。レスラーとしてテッド・デビアスらと戦ったり、タイトルを獲得したりの実績。マネージャー業も務める「頭脳派」。試合。レフェリーはジョー樋口。照明が落とされ、ニンジャ頭巾・コスチュームのカブキが入場。セコンドに川田利明。デュランには冬木弘道。美人さんから花束贈呈。カブキがダブルヌンチャク。頭巾を脱いで緑の毒霧噴射。試合はカブキがリード。腕を絞ってキック、延髄斬り、首筋にクロー攻撃。デュランはパンチ、ターンバックル攻撃。アッパーカットを使うカブキ。チョップ、ローリングソバット(低め)、カウンターキック。そしてセカンドロープからのフィストドロップで3カウント。体格的にはデュランが上だったが、カブキが攻撃力で勝利。コスチューム、ダブルヌンチャク、緑の毒霧、アッパーカット。ファンにアピールする要素をキッチリ見せた。その後のデュラン。リングを降り、「J・J・ディロン」の名でWWF、WCWでいわゆる「ブッカー(対戦カードを組んだり、抗争ストーリーを作ったりする役目)」を担当。レスラーとしてはそこそこだったが、プロレス界を支える大物となった。


その後

デュランとの凱旋帰国でカブキ人気は日本でも沸騰。アメリカから帰ってきた馬場が嫉妬したほど。あまりの人気にリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦したり、映画『カランバ』のプロモーションに参加したり。しかし、ギャラは低いまま。馬場がケチだったのか、全日本の経営が火の車だったのかはわからないが、カブキは日本(馬場の「しぶちん」ぶり)にウンザリ。しかし、アメリカもまたWWFの全米侵攻でカブキのようなレスラーは「時代遅れ」的な感じに。新日本で越中詩郎の「反選手会同盟」のメンバー入り。そしてSWS、東京プロレスといったインディ団体出場。引退して店を経営していたが、カムバックの要請。店の営業とリングの兼業。2023年1月22日、ザ・グレート・ムタの引退試合に登場。これが「リングでの最後のパフォーマンス」ということだが、ホントにそうなるだろうか?


2023年12月1日金曜日

おもしろ個性派レスラー「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」

昭和の時代には妙なレスラーが。写真で見た感じでは迫力。実力はどの程度だったのか? 個性で勝負したレスラーたちを紹介。

おもしろ個性派レスラー「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」
フレンチ・エンジェル(左)

アブドーラ・ザ・グレート

黒人レスラーで、アブドーラ・ザ・ブッチャーによく似ていたらしい。活躍した期間が短いらしく、「謎」のレスラー。キラー・トーア・カマタのようなタイプか?

ジ・エクスキューショナーズ

黒覆面のタッグコンビ。正体はキラー・コワルスキーとビッグ・ジョン・スタッド、とのこと。マスクマンのため、他のレスラーがマスクをかぶってこのコンビ名で試合したこともあるという。スタッドはとてもデカい男。新日本でもマスク姿で登場したが、「死刑執行人」風のマスクをかぶった姿は異常な威圧感だったに違いない。

ザ・グレート・カブキ

あの「カブキ」ではなく、オリジナルのグレート・カブキ。1970年代に活躍。反則ばかりで、怪しい日本語を使いファンから憎まれたヒールだったという。なかなか面白いキャラ(米良明久さんは彼のことを知っていたのだろうか?)。昔のレスラーは「コケおどし系」が多かったけれど、個性はスゴイ。

タロー・コバヤシ

1970年代に登場。ミスター・ヒトのタッグパートナー。日系人ではなくメキシカン、とのこと。こういう「日系」のレスラーは気になる。どんなファイトをしていたのか? 日本人のイメージが悪くなるような反則をしていたに違いない(という気がする)。

フレンチ・エンジェル

20世紀最高の怪奇派。見た目のインパクトが大のホラー映画っぽい風貌(顔がとても大きいアンバランスな身体)。売り出すために様々なキャラ設定がされたらしい。古い時代の選手のためパンチやボディスラムといった「ベタな」プロレス。50歳で亡くなった。

マサンブラ

1970年代に登場。ケニアの部族出身の黒人レスラー。ケニアに実在したという秘密結社「マウマウ団」のメンバー、とのこと。怪奇ムードで勝負。体格的にはやや小さかったが、実力はあったらしい。個人的に「怪奇レスラー」は好み。動いている映像を観てみたい。 

ミスター・ゾムビイ

マスクマン。メキシコを代表する怪奇派レスラー。彼に噛み付かれると謎の病原菌に冒され、高熱にうなされるらしい。身長は154センチ。個性的なマスクマンが多いメキシコ。小さい体で活躍するためにこういうキャラ設定にしたのだろう。

ロス・クラネオス

マスクマンコンビ。こちらもメキシコを代表する怪奇派レスラー。山奥で獣のような生活をしていたところをマネージャーに発見された、というギミック。もはや、「何でもアリ」という感じのメキシコマット界。あんまりバカバカしいことをやるとファンが離れていってしまうのでは? どんな技を使うコンビだったのだろう? 動いている映像が無いのが残念。

ンボア

コンゴ出身のヘビ男。ヘビを連れてリングイン。ピンチになるとヘビを相手に巻き付けて反撃したそうだ。ジェイク・ロバーツみたいな選手か?  どんな技を使う男だったのか(少し)気になる(DDTだったりして)。

まとめ

世界にはヘンなレスラーがたくさん。昔は情報が伝わるのが遅かったり、そもそも情報が無かったり。レスラーの写真もモノクロのがあるだけ、なんてことも。そのため「ハッタリ」をかますことが昔は容易だった。今は映像の時代。ちょっとした映像でも動いている姿を見ればどの程度「できるレスラー」なのかがすぐにわかってしまう。そのせいで「怪奇派レスラー」がいなくなったのは残念なこと。ただ、キャラ的には今でもウケそうな選手が昔はたくさん。「危険な技」ではなく「個性」で勝負するプロレスが観たいなと思う今日この頃です。