「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」。「不沈艦」と呼ばれたハンセン。必殺技はウェスタン・ラリアット。全日本で剛腕を爆発させた二試合を紹介。
①スタン・ハンセン(1949年8月29日~)
テキサス州ノックスシティ出身(全くそんなイメージはないが、デンマーク系だそうな)。本名「ジョン・スタンリー・ハンセンII世」(貴族っぽい)。大学卒業後、プロフットボール球団に入団したが、解雇。故郷の中学校で教師に。大学のフットボール部の先輩であったテリー・ファンクのスカウトでプロレス入り(ブルーザー・ブロディ、ダスティ・ローデス、ボビー・ダンカンもウエスト・テキサス州立大学の先輩)。パワーファイターとしてリングに上がるが、大きな転機。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでボディスラムを失敗してWWWFヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノの首を頸椎捻挫させてしまった(ラリアットで首を折った、と後に宣伝された出来事)。こういった不器用な選手は嫌われるのがマット界。アメリカでの活躍の機会が減っていく。初来日は1975年9月、全日本プロレス。1977年1月、WWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦。アントニオ猪木とのNWFヘビー級王座をめぐる抗争が人気化。そして新日本と全日本の外人レスラー引き抜き合戦。高額の契約金で全日本へ(1982年)。以来、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎らと抗争。
②「スタン・ハンセン vs. 大熊元司」
(昭和60年7月12日:八戸市体育館)
(内容)大熊は元・力士。トレードマークはモミアゲ。全日本では中堅どころ。グレート小鹿との「極道コンビ」としても有名。85年「熱風!サマー・アクション・ウォーズ」で行われたこの試合のレフェリーはジョー樋口。ハンセンが砂色(テキサスの砂漠をイメージ?)のコスチュームで入場。体格差(身長は大熊が179cm、ハンセンは192cm)。試合開始。ハンセンの攻撃をかわしてキック、そしてヘッドバット連発の大熊。しかし、そこまで。ハンセンが連続攻撃。チョップ、カウンターキック、ボディスラム、ダブルニードロップ、トーキック、ジャンピングニー。場外ではテーブル&鉄柱攻撃。リング上で「ちょこん」と当てるドロップキック。場外の馬場とやり合った後、大熊にウェスタン・ラリアット炸裂、3カウント。ハンセンが圧勝。大熊は「やられ役」。いかにハンセンが強いか、を観客に見せるのが仕事。しかし、トップを狙うのがプロレスラーというもの。「引き立て役」というのは悲しいポジションのような気がする。
③「スタン・ハンセン vs. 阿修羅原」
(昭和60年11月27日:札幌中島体育センター)
(内容)原(身長183cm)はラグビーの日本代表から国際プロレス入り。1980年4月3日、新日本プロレスで藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦、敗北。国際プロレス解散後、全日本入り。ハンセンとは因縁。全日本に移籍したハンセンの初試合の相手が原で、ラリアットで原は病院送り(1982年)。それから時が経ち、「85' 世界最強タッグ決定リーグ戦」で特別試合。レフェリーはタイガー服部。ハンセンが黒のコスチューム(背にはおなじみドクロの絵)、テキサス帽、ブルロープで入場。リング上で「ウィィー!」(ホントは「ユース!」って言ってるらしいが、「ユース」には聞こえない)。原が張り手。これに怒りのハンセンは場外でチョップ、テーブル&鉄柱攻撃。その後、原がチョップ、ヘッドバット、ショルダースルー、左腕攻め(ハンセンと戦う相手がよくやる「ラリアット封じ」。しかし、この攻撃によってハンセンがラリアットを打たなくなるケースはあまり無かったような気がする)。ハンセンはトーキック、ボディスラム、エルボー、ボディアタック。共にゴツい体ではあるが、体格ではハンセン。原のラリアットで場外に出たハンセンだが、リング上で逆に必殺ウェスタン・ラリアット。3カウントを奪ってサッサと引き上げていった。これもある程度予想できた結果。ぶつかり合い、といった感じの試合。デカい方が勝つのは当たり前。その後の原。ラリアットを武器に活躍。「ヒットマン」と呼ばれ、天龍とタッグ。借金問題から全日本を解雇。インディのリングへ。
③その後
引き続き全日本で試合。アメリカで何とAWA世界ヘビー級王座を獲得(AWAは古風なレスリングを見せる団体。パワーファイターのハンセンが王座に就くとは。しかし、AWAはこの頃は末期。後に消滅)。全日本では三冠ヘビー級王者になるなどラリアット健在。両膝の故障により2000年11月19日に引退。引退後もPWF会長を務めるなど「レジェンド」な存在になった。
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