2022年8月15日月曜日

アントニオ猪木:特集(7)「猪木について」「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」

世界一のレスラー、猪木についての様々なデータ(UWF、斜陽、ジャパン・プロレス、暴動、世代交代、ボクシングとの関わり)。

アントニオ猪木:特集(7)「世界のレスラー:プロレス専門ブログ」
ブロディ(上)、ベイダー

UWF

新しい団体「UWF」旗揚げ。新日本プロレスを「クーデター」で追放された新間寿が設立。参加レスラーは猪木、前田日明、海外勢はアンドレ、ホーガンら。ところが猪木らは試合会場に現れず。どうやら「UWF」はフジテレビと新間(猪木も?)が考えた企画だったらしい。「アントン・ハイセル」で猪木が資金難に陥ったためテレビ朝日とフジテレビの両方から中継料を得ようとした、というのが真相。結局、フジテレビとの企画はボツ。前田日明は藤原喜明、髙田伸彦といった若手らと共に「UWF」を「格闘プロレス団体」として存続させた。

斜陽

猪木が「アントン・ハイセル」といった事業に新日本プロレスの資金を投資し、その多くが失敗(どうやら猪木はブラジル人たちに騙されていたらしい。他にも「アントンリブ」「アントンマテ茶」といったビジネスもあったがイマイチ。2000年代になってからも居酒屋「アントニオ猪木酒場」閉店。プロレス以外はうまくいかない猪木)。それが新日本プロレスの経営を圧迫。所属レスラーによる「クーデター」やタイガーマスク、長州力の退団につながっていく。1983年8月26日、「お前ら、いつ、どこでも、誰の挑戦でも受けてやるから、ひとりずつ、俺にかかってこい!」と長州らに発言(「ひとりずつ」てのがいいね。全員で一気に襲われたらたまったモンじゃない)。

「アントン・ハイセル」:食糧問題、環境問題に取り組んだ猪木の事業。折角育てた牛をブラジル政府に没収されてしまったりして借金だけが残った。さらに糖尿病にも悩まされ、ヒザも悪化。

ジャパン・プロレス

長州らをアメリカで売り出そうと考えた猪木だが、長州が「ジャパン・プロレス」を設立し、全日本へ。猪木は裏切られた気持ちになったという。そんな状況でブルーザー・ブロディが新日本にやってきて猪木も期待したようだが、猪木に言わせるとブロディは「決まったパターンしかできない”でくの坊”」だったとのこと。1987年(昭和62年)、不倫騒動で倍賞と離婚。腐るような気分の中、マサ斎藤と観客なしの特別マッチを行ったが、これは猪木にとっては非常に大きな気分転換になったという。

暴動

1987年(昭和62年)12月27日。「猪木 vs. 長州」が予定されていたが、「たけしプロレス軍団」が登場し、ビッグバン・ベイダーとの対戦を猪木に要求。会場のファンはたけしらにブーイング(「そんな試合などいらない」という意思表示)。ところが猪木は「挑戦を受けてやる! どうですか?」。結局、猪木はベイダーにあっけなく負け、観客が暴動を起こした。

世代交代

1988年(昭和63年)8月8日、藤波辰巳のIWGP王座に挑戦。猪木は「負けたら引退する」と宣言したが、60分時間切れの引き分け。これが猪木最後のIWGP戦となった(後に著書で語られた猪木の本音。「藤波や長州は小さい」「藤波を後継者だと思ったことは一度もない」「前田が次のエースだ」。藤波が気の毒になってくる発言。確かにレスラーはデカい方がいいとは思うが)。

ボクシング

アリと試合したように、プロボクシングとも縁がある猪木。ソ連のアマチュアボクサー、ユーリ・アルバチャコフ、オルズベック・ナザロフらを協栄ボクシングジムに預け、日本でプロデビューする道を拓いた。ユーリ、ナザロフはプロで世界王者に。しかし、日本での成功を諦めた選手、「プロ失格」となった選手も。 

リンク

特集(6)

猪木についての様々なデータ(追放、新日本プロレス旗揚げ、変化、上昇、異種格闘技戦、タイガーマスク、IWGP)

猪木についての様々なデータ(政治家、北朝鮮での試合、引退、新日本プロレスからの撤退、必殺技)

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