プロレスを超えた「最強」を目指して他の格闘家と戦い、IWGPを設立した猪木。数え切れないほど多くの試合をやってきた猪木の代表的な戦いを振り返る。「80年代~引退試合」
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IWGP決勝戦、巌流島の戦い |
1980年(昭和55年)2月27日。「熊殺し」ウィリー・ウィリアムスとドクターストップの無効試合。
(緊迫感があった試合。猪木によるとウィリーのセコンドたちの態度・振る舞いが邪魔で試合に集中しづらかった、という)
1982年(昭和57年)11月4日。国際軍団(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)と1対3の変則マッチ。寺西、浜口からフォールを奪ったが、木村にリングアウト負け。
(面白い企画ではあったが、国際軍団にとっては屈辱的な試合。アニマルのやられっぷりは今でも語り草)
第1回IWGP
1983年(昭和58年)5月27日。第1回IWGP決勝リーグ戦で前田明と唯一のシングル対決。猪木のフォール勝ち。
(グリーンボーイ的な存在だった前田。この頃はまだ「猪木の時代」だった。後、UWFから戻ってきた前田が猪木戦を希望したが、猪木は対戦を避けた。その理由は未だに不明)
同年6月2日。第1回IWGP決勝戦でハルク・ホーガンと対戦、アックスボンバーで猪木がKO負け。
(失神事件。ホントに猪木は失神したのか? という疑いは今でも。エプロンサイドで食ったアックスボンバーはかなり強烈なものだったが・・・)
第2回IWGP
1984年(昭和59年)6月14日。第2回IWGP決勝戦で猪木は前年度優勝者のハルク・ホーガンに挑戦。2度の延長戦、長州の乱入。そして猪木がリングアウト勝ち。
(これも謎がある試合。なぜ長州は乱入したのか? 何も語らない猪木と長州。この件には触れられたくないと思われる)
1985年(昭和60年)4月18日。ブルーザー・ブロディと初対戦、両者リングアウト。
(猪木はブロディを評価していない。「ワンパターンだから」とのこと)
1986年(昭和61年)6月17日。アンドレ・ザ・ジャイアントにギブアップ勝ち。
(アンドレを初めてギブアップさせた猪木。この試合にもいろんな事情が。ミスター高橋の本に詳しい)
1987年(昭和62年)10月4日。マサ斎藤と「巌流島の戦い」。
(どこまで体力が持つか、互いに試し合った長い試合。この試合に批判的な人もいるが、個人的には「互いの意地」が見られてよかったと思う)
同年12月27日。「たけしプロレス軍団」の刺客ビッグバン・ベイダーと対戦。
(猪木があっけなく負けた試合。暴動も発生。ベイダーと戦うことについて猪木が観客に「どうですか?」と問いかけた。体力が落ちていた猪木はベイダーとはやるべきではなかった。ベイダー側も勝っても自慢にならない試合だった)
1990年(平成2年)2月10日、坂口征二と組んで蝶野正洋&橋本真也と対戦。蝶野からフォール勝ち。
(この試合で初めて「1、2、3、ダー!」を披露した、とのこと。試合前に橋本のコメントに蝶野が笑うシーン、猪木がインタビュアーに怒るシーンは今でも語り草)
1994年(平成6年)5月1日。福岡ドームでグレート・ムタにフォール勝ち。
(この試合が「イノキ・ファイナルカウントダウン」の最初らしい。ムタのムーンサルト連発が見せ場だった試合)
ラストファイト(?)
1998年(平成10年)4月4日。「ファイナルイノキトーナメント」を勝ち上がったドン・フライと対戦。グラウンド・コブラツイストで勝利、引退。
(最後の試合。猪木の必殺「延髄斬り」が素晴らしかった試合。試合後の「危ぶむなかれ」も有名。いろいろあったキャリアだったが、有終の美を飾った)
リンク
猪木の代表的な戦いを振り返る。「新日本プロレス旗揚げ:70年代」
猪木についての様々なデータ(本名、ニックネーム、身長体重、配偶者、少年時代、他のスポーツ歴、ブラジルの話)
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