プロレスを超えた「最強」を目指して他の格闘家とも戦った猪木。数え切れないほど多くの試合をやってきた猪木の代表的な戦いを振り返る。「デビュー~日本プロレス追放」
全記録
プロレスでの「通算成績」は「シングル戦:612勝41敗50分」「タッグ戦:1466勝104敗130分」だそうだ。
(誰かは知らないけど、よく数えましたねー。どうやって調べたのだろう? プロレスには地方巡業もたくさんありますけども)。
BI砲(上)、ドリー戦 |
デビュー戦
1960年(昭和35年)9月30日。大木金太郎(金一=キム・イル)に逆腕固めで敗退。
(遠慮無しの大木。頭突き連発だった、とか)
1961年(昭和36年)5月25日。馬場正平と初対決、羽交い締めで敗退。
(デカすぎる馬場。この頃、猪木は馬場に全く歯が立たなかったらしい)
海外武者修行
1964年(昭和39年)3月12日。海外での初試合。ハワイでプリンス・イヤウケアと対戦。他にも海外では、ディック・ザ・ブルーザー、フレッド・ブラッシー、ザ・デストロイヤー、ジン・キニスキー、フリッツ・フォン・エリック、といったプロレス史に残る選手と対戦。
(猪木のプロレスには「スケール」を感じる。こういうレスラーたちから試合運びを学んだに違いない)
東京プロレス旗揚げ
1966年(昭和41年)10月12日。東京プロレスの旗揚げ戦でジョニー・バレンタインに勝利。後、バレンタインからUSヘビー級王座を獲得(初のシングル王座獲得)。しかしながら、東京プロレスの崩壊に伴って王座は消滅した、とのこと。
(よくわからない王座。「東京プロレス」用のベルト? 「PWF」も「ハワイのプロレス団体の王座」ということだけど、ハワイにプロレス団体なんてあるんですか?)
日本プロレス復帰
1967年(昭和42年)10月31日。ジャイアント馬場と組み、ビル・ワット&ターザン・タイラーからインターナショナル・タッグ王座を奪取。馬場とのタッグは「BI砲」と呼ばれ、日本プロレスの主力商品に。
(仲介人のおかげで日本プロレスに復帰できた猪木。もし、誰からも相手にされてなかったら後の活躍は無かった)
1969年(昭和44年)5月16日。クリス・マルコフを破り、ワールドリーグ戦初優勝。
(「やっと馬場に追いついた」と試合後に語った猪木。次の目標は馬場との一騎打ちだったが・・・)
同年12月2日。NWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアに挑戦。60分時間切れ引き分け。
(テクニックで競い合った試合。「猪木のベストファイト」と評価する人も。後、猪木はNWAに挑戦することは無かった)
1971年(昭和46年)3月2日。ジョン・トロスを破り、UNヘビー級王座を獲得。防衛にも成功したが、日本プロレスから除名され、タイトル返上。
(いわゆる「猪木追放事件」。上田○之助が日本プロレスの幹部に「猪木が会社に反逆しようとしている」と密告した、と言われている。)
リンク
猪木の代表的な戦いを振り返る。「新日本プロレス旗揚げ:70年代」
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